あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

「おらおらでひとりいぐも」…四十六億年プラスアルファの人生を振り返る普通の婆ちゃんの話

最近、私のばあちゃんは87歳の誕生日を迎えた。 87歳、とgoogleカレンダーに書いてあって、正直驚いた。とっても長生きだ。私のばあちゃん達は二人ともボケもせずシャッキリとしている。

ばあちゃんは最強だ。もちろん身体は衰えているけど、ちょっとやそっとのことじゃあ動じない。キャベツに虫がいればそのまま指で潰すし、一人で過ごすには不気味なんじゃないかと思うような古い部屋で長年、積み重なったいろんな気配と一緒に暮らしている。

ばあちゃんをはじめ、年取ってもなお、いやむしろ年取ったからこそどっこい逞しく生きる女性は、小さいことで朝起きるのが辛かったりするつまらない私に、どんと、エネルギーをくれる。

「おらおらでひとりいぐも」の桃子さんは、私のばあちゃんずよりはよっぽど年下だけど、なかなかに逞しいばあちゃんのようだ。芥川賞から知ったけど、これは読まずにはいられなかった。

あらすじ

  • 日高桃子さん、74歳。生まれは東北。勝気な母親と優しいばあちゃんに育てられた。地元の農協に就職し、いざ結婚話まで上がったところで、東京オリンピックの「ファンファーレに押し出されるようにして」衝動的に上野行きの夜行列車へ飛び乗った。
  • 都内で住み込みで働いているうち、同郷の言葉を話す、美しい顔をした男と知り合った。二人は結婚し、子どもをもうけた。
  • やがて子どもたちは自立して所帯を持った。桃子さんはまず飼い犬を、その一年後には夫を無くし、いまはたった一人で郊外の戸建てに暮らしている。そんな桃子さんのひとりがたりです

所感

独りぼっちのプロ 桃子さんと、賑やかな柔毛突起たち。

孤独な独居老人の生活は静かでさぞ退屈だろうと思いきや、だ。少なくとも桃子さんについては。

桃子さんは孤独のプロだ。内省的な人間も彼女ほど極まってしまうと内に「柔毛突起」と呼ぶ声がひっきりなしに議論するようになるようだ。それはこんなものという。

ふだんはふわりふわりとあっちゃにこっちゃに揺らいでいて 、おらに何か言うときだけそこだけ肥大してもの言うイメ ージ 。

桃子さんは面と向かって人と話すことが苦手だが、柔毛突起達が常に賑やかなお陰で寂しさを紛らわすことができてきた。わたしが桃子さんに惹かれるのは、わたしもどこか、この気があるからだろう。それに桃子さんのような独居老人になりかねないからこそ、逞しく生きる姿が眩しく見える。無骨な岩手弁が逞しさを助長している。

自分の内側から聴こえてくる様々な声 、それこそがわが友 、わがはらからと思っている節がある 。自分のような人間 、容易に人と打ち解けられず孤立した人間が 、それでも何とか前を向いていられるのは 、自分の心を友とする 、心の発見があるからである 。

「おらおらでひとりいぐも」は桃子さん(本体)と、柔毛突起たちの対話そのままだ。主婦で生活に追われていた頃には腰を据えて自分についてのモノゴトを考えることが出来なかった桃子さん。良き話し相手となった柔毛突起たちは初めからいたわけでなく、ある時、夫の死を契機に目覚めた。

亭主が死んで初めて、目に見えない世界があってほしいという切実が生まれた。

そこから知らない声が内から聞こえるようになった。声と対話してくうちに、桃子さんには本来の自分のありよう、若い時の衝動まで蘇ってくる。確かに元々は、夜行列車に飛び乗って、後先考えずに上京してしまうような人間だった。

特に圧巻なのは第3章、3つの布陣に分かれた柔毛突起たちが「愛について」繰り広げる大戦争、大討論だ。外見は、静かな喫茶店の片隅でソーダ水を前におとなしく座る婆さん。しかしその内心穏やかでないシーン。夫との出会いから死別までを回想した後、柔毛突起たちが暴れ回る。

ある柔毛突起たちは夢見る瞳をもち、愛に捧げた人生は幸せだったと合唱する。

またある柔毛突起たちはきれいごとを言うな、と鋭い突っ込みを投げ入れる。自分よりも他人を大事にするような愛は果たしてそうなのか。人のために生きるのはやはり苦しいものだったという本音が溢れ出す。本当はもっと自由に生きてみたかったと。

店のBGMも巻き込んでの大合唱の後、最後の柔毛突起の一団がこうのたまう。愛、愛と言っていたがそれは相手を疲れさせてしまっただけのものにすぎないのではないか、愛は変容するものだったのではないか、と。それら全ての柔毛突起たちを抱えて、桃子さんは生きていく。

問いがあればさらに深められる。自分に対する好奇心、それが待つだけの日々の 無聊 を慰めてくれると、桃子さんは祈りにも似た気持ちで信じているのである。

自分の気づきがいつまでたっても自分にとっては面白いものでありたいと、わたしも思った。

四十六億年の過去から桃子さんは八角山へと還る。じゃあわたしは?

我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、我々は何処へ行くのか なんてタイトルの絵画があるけど、意外とこの物語はそういう壮大なものがテーマになってるのかもしれない。

桃子さん、ちょっと変わった老人で、「地球四十六億年の歴史」みたいな生物進化のドキュメンタリーが好きで、自分用に書き留めている大切なノートを持っている。「地球四十六億年の歴史」と、その先にちょいっとくっついてる「桃子さん七十四年の歴史」が繋がって、桃子さんがいて、その娘がいて、みたいなことを意識させられる作りになっている。

先の「愛について」の大討論の最後に、桃子さん、こんな風に締めくくる。周造は亡くなった夫。

四十六億年の過去があった。つづく未来もあると思いたい。周造、おらどは途上の人なのだ。どうしても今を生きるおらどいう限定、おめはんという限定からは逃れられない。それでも人は変わっていく。少しずつ少しずつ。だから未来には今とは想像もつかない男と女のありかたがあるのだと思う。そう思わせるものがこのノートにもいっぱい書かれてあるのだ。

桃子さん、七十四にしてはかなり頭が柔軟なように思える。

それに、娘が自分の嫌なところばかり似てしまっていることに気づいた時、こんなことを考える。

桃子さんが言いたいのは 、なぜ桃子さんは桃子さんなのかというようなこと 、最も素朴で根源的なことなのだ 。その桃子さんが桃子さんであったがために娘である直美にどう作用したのか 、作用してしまったのか 。

四十六億年と七十四年の先にさらに続いていく感じを持たせている。人は、こうやって続いていくのだ、と思わせる。わたしも逆だけどふと、日常の自らの仕草に母を感じることがあって、面白くなることがある。

桃子さんは、桃子さん七十四年の歴史の流れもちゃんと感じている。

桃子さんが桃子さんの肩を抱き寄せ、手を引っ張り、背中を押して、前になり後になり、その道中の陽気なこと。

夫の墓参りに行くシーンで、様々な年代の桃子さんが一緒になって歩いて行くシーンがある。わたしはこのシーンがとくに好きなんだけど、ここを読むまでは、わたしの二十八年の中にも、いや三百六十五日、二十四時間、瞬間瞬間の中にも連続しているわたしがいることを感じさせた。例えどんなだらしない瞬間があろうとも、その絶え間ない生の営み歩みなしにはわたしは今、いなかったのだと思うと、桃子さんと同じようになんだか感慨深いものを感じた。

最後にもう老い先短い桃子さんには、ちょっと先の自分とそのさらに先、行き着くところのビジョンまで見えてしまっている。これはまだわたしには見えないものだった。

桃子さんはあそこが自分の居場所だと感じた。あそこにしか自分の居場所がないと思った。

桃子さんにとっての居場所とは後に捨てて来た田舎、思い出の、心の中にある田舎の「八角山」だった。それは、昔はあんまり好きではなかった山だという。

草枕」読むような心境だし、結構わたしも「どこへ行ったところで」感が年々強まって来た。三十間近で、自分の中の構成要素がシンプルになって来たというか、引き算になって来たというか、なんだかそんな気持ちがしている。最後に戻るところはどこなんだろうか。

七十四歳の極めて凡人な哲学者、桃子さんと一緒に地球四十六億年プラスアルファの人生を想うことのできる、意外と壮大な日常の物語。それでいてクスッと笑えるところもあるし読みやすかった。よかった。

おらおらでひとりいぐも

おらおらでひとりいぐも