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あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

アンドロイドは電気羊の夢を見るか - 勇敢なひとりぼっちの物語

フィリップ・K・ディックアンドロイドは電気羊の夢を見るか?」より②

 物語の舞台

富めるものが火星へ移住しアンドロイド(人間型ロボット)を召使にして生活する時代に残された土地、荒廃した地球で起きた物語。

地球は第三次世界大戦の後遺症をうけてひどく放射能で汚染されてしまったが、それでもそこかしこに人間たちは暮らしていた。彼らは2つのグループに大別できる。肉体的精神的に問題がないとされた"適格者"(レギュラー)と、その逆の"特別者"(スペシャル)。レギュラーたちはその気があれば火星へ移住できるがあえて地球に残ることを選択したものたち。スペシャルは火星へ移住したくてもそれが許されなかったので郊外や特別な施設でひっそりと暮らすことを余儀なくされたものたち。

主人公は警察機関に所属してならず者を狩る"賞金稼ぎ" の男、リック・デッカード。"適格者"だ。電気仕掛けの精巧な羊ロボットを飼っているが、一攫千金をしていつか生きた本物の動物を飼うという野心がある。

みんなといるのも楽しいけどひとりがやっぱり安心するひとむけ

なんでこの小説がすごいのかおもしろいのかというとわたしにとっては第一に、小さな発見や気づきのようなものにたくさん出くわしたからだ。「自分、人間味うすいなー」と思ったことのあるひと、集団の中での安心感もわかるけどひとりぼっちも悪くないひと、Siriへ話しかけてみてさみしさを紛らわせたことのある人は、きっと気づきがあるとおもう。

 

第二に、①の方に書いたような発明品を始めとする、作者の近未来を予見するアイデアがなんとなくあり得そうで刺激になるからだ。これはSF共通のうま味かもしれない。

みんな求めてる"人間らしさ"

ってなんだろう。

この物語の中では人間もアンドロイドも、執拗に 人間らしさ を自らと、自らが住む社会に求めているようにみえる。

荒廃し、生物がほとんど死に絶えた環境の中において、人間たちは電気仕掛けではない生物の"生命"を大切に扱うことをなにより美徳とされている。逆に、本物そっくりな電気仕掛けの生物はなくてはならないものではあるけど、一般的には間に合わせのまがいものとして扱われている。人間たちはなにか生き物を飼うことをステイタスとしているけど、それが本物かまがい物かを訪ねることはタブーとなっている。

人間たちは自らも持つその"生命"の価値を高めるために、はっきりと機械生物たちとの線引きを行おうとしている。人間そっくりのロボット、アンドロイドと人間を区別する手法として"感情移入"の度合いを測るテストが使われる。人間たちはアンドロイドたちの感情移入する能力が劣っているとおもっている。例えば誰かのことを愛しいとおもう、嫌悪を覚える、喜びや悲しみを分かち合える、そんな能力が人に比べて欠けているとおもっている。

一方電気仕掛けのアンドロイドたちは、自らのモデルとなった生物、人間たちのふるまいを一生懸命学びとろうとする。彼らはあまりに人間に寄せて精巧に作られたため仲間を、友達を作ることだって出来るし、ときには状況に不満を抱いて殺人を犯したりもする。この世界のアンドロイドたちは既に、人が言うところの感情のようなものを手に入れ始めている。アンドロイドたちは別に人間たちとの線引きをしたがってはいないけど、違いは自覚している。そこに切なさがある。

もうひとグループ、人間のうち特定の精神疾患を患っている(と扱われている)ものは、その中間の曖昧な存在としてえがかれている。彼ら「特別者」の中には "感情移入テスト" によってアンドロイドとみなされてしまう性質のものもいる。人並みに扱われない彼らも、人間たちの例に漏れず "人間らしさ" を求めている。

感情移入能力テスト

人間とアンドロイドを線引きするテストは、対象の感情移入の能力、他の誰かと共感する能力の高さを測るものだ。アンドロイド、"適格者"、"特別者"、みんなこれを尊んでいる。

 問題はこのテストの指標は "適格者" の感情移入能力だということ。これによってテストは "適格者" とそうでないものを区別する意味合いしか持てない。

アンドロイド、"特別者" 視点からすると、かれらなりの "感情移入能力" は("適格者" のそれとは異なるかもしれないけど)ちゃんとある。

インターネットに似てるかも?マーサー教

作中にはマーサー教という宗教がある。その柱となるのは①でとりあげた "黒い共感ボックス" のハンドルを握ることで出来る、マーサー老人との精神融合体験だ。

人間たちは "適格者" だろうと "特別者" だろうとこれを体験することが出来る。ハンドルを握れば、荒れ果てた土地をひた歩くマーサーという老人の感覚になる。それと同時に、同じく "黒い共感ボックス" を使っている不特定多数の人間たちの存在も感じることができるという。この宗教は特に教義をもたないけど、じぶんはひとりじゃない、感覚を共有するところに真髄があるという。ちょっとインターネットとそれを使ったサービスのようだ。

しかしアンドロイドたちはこれを感じ取ることができない。

ピンボケくらいの優しさ

これまで出てきた3つのグループだと "特別者" の感情移入能力が一番優れているんじゃないかな。

"特別者" は "ピンボケ" と蔑まれているけど、これはなかなか言い得て妙な表現だと思う。

作中では "ピンボケ" 代表として、イジドアという人物が登場する。彼は機械生物の修理屋でドライバーとして雇われている。

ある日、彼は生身の猫と電気仕掛けの猫を間違えて修理屋へ移送してしまった。かれは "ピンボケ" なので区別がつかなかったのだ。ただかれにあったのは、機械だろうと生身だろうと関係なしの、猫を助けたいという気持ちだけだった。

その、ちょっとピンボケな垣根の低い気持ちこそが、高い(というか広い)感情移入能力なんじゃないか。

理屈じゃなくて、自分の感覚を定規にして線を、必要なら引くこと。

この物語は途中から誰がアンドロイドか、誰が人間かは区別できなくなってくるし、区別自体どうでもよくなっていく。

じぶんのリアルを信じて勇敢にひとり進む

アンドロイド、"特別者"、マーサーとの関わりを経て主人公リックは自らを終わらせるつもりで最果ての地へ赴く。そこで出会ったのはマーサーとの融合体験で見た土地とあの感覚のリアル版だった。しかしそこには他の "共感ボックス" の気配はせず、まるっきりの自分だけだという強い実感があった。

自分だけの感覚をもって、その定規で、リアルな世界をひとりでゆく。

リックは、マーサーは自分自身だと気づく。その過程がすこし複雑なので読んでない人は読んだ方がいい。わたしははっとしたよ。

千の顔をした英雄との対比

余談だけどこの物語は最近読み終わった「千の顔をした英雄」で紹介されている「世界中の物語の原型」とされる話の筋にかなり近い形で作られていたので、それを意識しないことが難しかった。フィリップ・K・ディックはもしかすると「千の顔をした英雄」を読んでいたのかな。これを読むより先に「千の顔をした英雄」を読んでいるとなるほどな〜感と、読んでいるときのドヤ顔の度合いは増すと思う。

もやもやが残るところ(教えて下さいわかるひと)

プロキシマを目指した10人とアンドロイドについて

 主人公が出会うアンドロイドの「特異点」としての存在、レイチェルが本当にアンドロイドだったとして、彼女に丁寧にも植えつけられていた偽の、手の込んだ記憶のくだりはなぜ挟まれたのだろう。

火星からの逃亡アンドロイド8人のモデルはひょっとして、プロキシマを目指した人間たちだったりしないか。その8人は既に死んでいるんだけど、残りの2人が生きていて作り出したんじゃないかなんてちょっとおもった。

アンドロイドメーカーのローゼンの叔父、警視ブライアント、そしてイジドアあたり怪しい。

マーサーとイジドアの類似性

マーサーとイジドアは、同じ過去を持つ。イジドアは誰かに記憶を操作されたマーサーそのものかもしれない。

じゃあ誰が何のためにそんなことをしたのか。

おわりに

ほかのフィリップ K ディック読んでないのでこれから読みます。

ですから無知なところ色々あるだろうとおもうので知ってる人はおしえてください。

おもしろかった。

とりあえず書きなぐった。