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あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

アルジャーノンに花束を - 大人になるってのは、さめていくことなんでしょうか

ダニエル・キイスアルジャーノンに花束を」大人になること①

大人になるにつれてさめる「酔い」

ついこの間二十何回目かの誕生日を迎えた。そうしてまたひとつの節目が始まった。

最近見えてきたことがある。西加奈子の「きりこについて」という小説(これも別にまた書きたいなあ)でなるほどなと思った、子供の頃の脳みそについての説明である。この話の語り手によると、十一歳までの子供の脳みそは水のようなものの中にふわふわと安定しないで浮いており、その状態は大人でいうと酔っ払った状態に近いものという。中学校に上がるまでの子供は「酔った」状態だからちょっとしたことがおかしくて仕方ないし、なんとなく楽しいといった空気をまとっている。

大人になっていくことは「酔い」からさめていくことなのか。

さめることは悪いことなのだろうか。

さめた大人への嫌悪

何にも熱中するものが見つからない時期っていうのがある。そんな時ほどまわりが進んでいるように見えて、自分だけひどくつまらなくてとるに足らない人間に見えてくる。

一方でそういう時こそつまらないものアンテナみたいなものが発達し、まちのなかにいるつまらなそうな表情の人たちをよく察知してしまう。そうやって目に入ってくる人生にくたびれた表情、意味のうすい言葉、はっきりしない足取りをみていると何のために生きているのかと、彼らと自分に向かって嫌悪感を感じた。

そんな自らと他人の「さめ」に気付き始めるのがまさしく「酔い」がおわる中学はじめくらいだったんじゃないかと思う。こわかったからとにかくそのムードにのまれないように、のまれないようにと逆らって、うそっぱちの高いテンションで武装していた。

さめてしまった、その先

あの「酔い」、あのムードから醒めてゆく途中でひとは「むなしさ」と出会う。それまで意味のあったものは無意味になり、より広い世界を知り、自分の取るに足らなさを知っていく。

しかし年をとり、格好いい人生の先輩たちと出会い話をするにつれ、最近ようやく「その先」が見えてきた。

しらふになってゆくことは、自分の見えるものごとの解像度があがるっていくことなんだとおもう。

例えば、昔から感じていた何となく楽しげな「空気」みたいなものがあったとする。大人になるにつれてそれがどんな色をしていて、何で構成されているのか「正体」が分かるようになっていくんだと思う。

これまではなんとなく楽しげな「空気」の気持ちいい中にみんなで浸って、わけわからないけどおもしろいねって言い合えていたけど、もうそれじゃあ飽きちゃうし、満足できなくなってくる。

大人がこまかい違いにこだわっているとたまにいさかいが起きるからそういうとき、ちょっと子供に戻るためにお酒を飲むし、たばこを吸うし、ときにアイドルに熱を上げてみたりなんかする。そこのところの「あえてたしなむ」楽しみは大人ならではなんだろうとおもう。

解像度があがるとできること

こどものころはつかみどころがなかった素敵な「空気」だけど、大人はもうその中身を分けてみることができる。つまり「すきなもの」をよりピンポイントで選り分け、自分用に周りに集めておくことが可能になったのだ。

だから「すきなもの」を逃さないようにするアンテナは敏感にしておく必要がある。これが上手に集められる人は、魅力的にみえる。

アルジャーノンに花束をを読み返す

こんなところで、IQがおおくの人に比べて低く生まれついてしまったチャーリィ・ゴードンが科学の力によって天才と呼ばれるまでになった話、子供以下の知能から世間一般の大人以上の知能まで体験した男の話、「アルジャーノンに花束を」を読み返そうと思った。

 

つづく