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あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

円卓 - 小学校のクラスのヒーローは、いま

小学校三年生のあの頃

小学校三年生の頃を覚えているだろうか。

西加奈子による小説「円卓」は、小学校三年生の渦原琴子(通称:こっこ)の目線で、小学校三年生の世界が生き生きと描かれている。読んでいるとあの頃に置いてきてしまった感情、「ふつう」な自分が「特別」になろうとしていた努力、を思い起こす物語だった。

表紙は写真家、川島小鳥の写真。数人の男女の児童が、噴水の下のところに付けられた水が溜まるスペース(なんていうんだろう)のような部分の縁から、緑色の水面を熱心に覗き込んでいる様子。タニシでもいたのかな。純粋に楽しそうな様子が、この小説にぴったり。

表紙をみていて「どぶ」っていうことばを思い出した。あの頃から久しく使っていない言葉で、懐かしい再会をした気分だ。水が溜まるスペースは「どぶ」じゃないけど、多分小学生の時の私らだったらここを「どぶ」って呼んでいたんだろうな、ってはっと思い出した。遊び場のネーミングなんて「がけ」とか「うら」とかそんな世界。

アニメの主人公みたいな「特別」を探して

こっこは大家族で暮らしている。祖父母、父母、三つ子の姉、それにこっこという8人家族だ。これだけの大所帯というのと、三つ子の姉のいる環境で十分「特別」なのに、家族一人一人の個性を分析した上でこっこは「凡庸」だと捉えている。そして眼帯をしている子や、吃音の子の「特別」さを格好良く感じては、彼らの真似をして怒られる。どうして「特別」な子の真似を「特別」じゃない子がやって嫌な顔をされるのか、こっこには分からなかった。

「特別」感が欲しい気持ちは良くわかる。当時、眼帯はもちろん、「ギプス」をしている様子はめちゃめちゃ格好良く見えた。クラスの中で「特別」に可愛い女子がいればその可愛さの源が知りたくてじっと見つめてしまうし、それら大きくて魅力的な瞳や白くて綺麗な素肌がない自分に絶望したり、空手をやっていて「特別」に細く引き締まった男子がいれば、自分の腹のたるみと比較して落ち込んだりした。

アニメの主人公にも、クラスの他の子にも特筆すべき生まれついた「特別」があるように思えるのに、どうして自分にはないのか、とわたしの「特別」を必死に模索したものだった

ジャポニカ」もとい「ひみつノート」。

こっこは、重要そうに思えることばを耳にした時、逃したくない気持ちの動きを感じた時にそのようすを「ジャポニカ」ノートへ記録するようにしていた。「ジャポニカ」の表紙は、こっこが聞いた受け売りの格好いい言葉「だれおもあけることならぬ」が堂々たるゴシック体で記されており、開くと「こどく」と、三つの文字が並んでいる。

わたしは既視感を感じた。「ジャポニカ」、これはわたしの「ひみつノート」だ。それは「ひみつ」感を高めるためにあえて名探偵コナンのデザインのノートをベースにし、表紙には「ぜったいにひらくな」と封をほどこしていた。1ページ目あるものはちょっと言えないけれど、用途としてはこっこと同じように用いていたノートだった。この小説に感じるシンパシーの強さに思い入れを深くした瞬間だったけど、こっことわたしが持ってるんだから、2人いるんだから、意外と隠しているだけでみんな、各々の「ひみつノート」を持っているものだったのかもしれない。

 「ひみつノート」は、だんだんと、どう書いていいのかわからなくなって、空白が続くことになる。ものと、ものの意味のつながりが連鎖してゆく。その、はじめて出会う気持ちを表すことばを持っていないから、書きとめることができなくなる。確かにそんな経験は小学校中学年頃だったかもしれない。その感覚、忘れていたなあ。

作中ではこんな風に表現されていた。こんな、みずみずしい微妙な感覚を覚えている大人の作家がいたなんて、ちょっと妬いちゃうし、ただただ、尊敬する。

思いはたくさん、あふれるほど胸をつくのだが、それを言い表す言葉を見つけられなかった。というより、言葉を発する瞬間に、わずかな重力を感じるようになった。何か言いたいことがあっても、その重力のため、口が簡単に開かなくなったのである。重力から解放される場所にたどりつくまで言葉を探すのだが、大概は、それを探し当てる頃には、もう遅かった。

ああ、ほんとうにそのとおりだったなと思った。

「こどく」との出会い

「こどく」にあこがれていたこっこは、団地の一角で変質者(通称:鼠人間)と出会い、怖い目にあってから、ちょっと変わる。その日はいつも一緒にいる幼馴染のぷっさんがおらず、こっこひとりで鼠人間と対峙し、そのあとの感情を処理しなくてはならなかった。そこでこっこは「こどく」みたいなのは思っていたよりも静かで、甘くなくて、徹底的にひとりぼっちでしか処理できない感情だっていうことを知る。小学校三年生にしてそれを悟るこっこは大人だと思った。

学校と家庭が世界の全てだったあの頃、通学路で時たま出会う変質者やヤンキーは、世界の外にいる恐ろしい存在だった。もしたったひとりで彼らと対峙しなくてはならない場面があったら、私はどうしていただろうか。

わたしがこっこのような「こどく」を感じたのは、こっこに比べると遅くて高校一年生くらいだった。ちょっと背伸びして入った高校の周りの人たちはとっても上品で賢そうに見えて、わたしが生きている世界の外にいるひとたちだった。世界の外の人たちと対峙する時、胸中を占める最も大きな感情は恐怖だけど、振り返った時に、その経験は自分を刺激する。

小学校の、あのクラスのヒーローは、いま。

「円卓」を語る上で欠かせないのが、登場人物たちのひかりまくる個性だ。さくらももこさんの「ちびまる子ちゃん」を読んだ時にも似た感じで、クラスのだれかが、そいつらしいことを喋るだけで、なんか面白い。どんなひとたちがクラスにいるのかは是非本作を読んで確かめてほしい。「うんこ」を連呼する男子とか、ませた女子とか、ああこういうやついたわーってのが絶対にいると思う。

小学校の時のクラスって、特に公立の小学校であれば、家庭の経済状況、頭の良し悪し、国籍、ファッション(TPOを意識し始める前)、容姿(顔いじりに手を染める前)の良し悪しなど、それこそすべてのステイタスが最も多様にまざりあった人種のるつぼなんだろうし、その状況は、今ふりかえるとすごく面白いと思う。るつぼの中にいたわたしたちは、家庭と学校が世界の全てだった

いま振り返ると、クラスの端っこの目立たないところですっごい細かい迷路を書いていたあの子だって気になるし、いつも擦り傷が絶えなかったあのよく笑ってた子も。みんな超、キャラクター立っていた。あの頃のクラスメイトたちは、当時大人が想像していたようなすがたになったか。答えあわせは年末年始の同窓会でかな。