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あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

遊びと人間 - まず、あそぶってなんだっけと思い。

 「あそぶ」行為について、かんがえていました。

冗談を言うことが苦手な私は「あそぶ」ことも同様に苦手です。会話の途中でふざけてくる「おちゃめ」な人たちの軽やかさは羨ましくもありますが、不意を突かれると度々その返しに困り、固まってしまいます。友人と「あそぶ」と言われても、実際に行なっているのは一緒に食事をしたり、何かを鑑賞したりすることです。これは「あそぶ」なのかとふと思うことがあります。

人間の私はこんなに不自由なのに、知能がある程度高い人間以外の動物でさえ、上手に「あそぶ」ことができる様です。例えばユーチューブを漁っていると、日本のイヌたちがふざけて追いかけっこする様子や、ロシアのカラスたちが雪遊びをする様子など確認することができます。

そういえば、私自身もかつては、小学生くらいまでは上手に「あそぶ」ことができていた様に思えます。秘密基地をこしらえたり、独自ルールの鬼ごっこを作ってみんなを巻き込んだり、どちらかというと、遊び上手だった気さえしてきます。

ではなぜ、いつのまに「あそぶ」ことが難しくなってしまったのだろうか。この難しさの正体はなんなのだろうか。そろそろこの問題に向き合い始めようと思いましてインターネットの海から情報を集め、手始めに ロジェ・カイヨワ の 「遊びと人間」に取り掛かりました。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

 

 カイヨワはまず、「遊び」を以下の様に定義しました。

そしてここから逸脱した(元遊びの)行為は「堕落した遊び」としました。以下抜粋です。

  1. 自由な活動 : 遊戯が強制されないこと。むしろ強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
  2. 隔離された活動 : あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
  3. 未確定な活動 : ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。
  4. 非生産的活動 : 財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
  5. 規則のある活動 : 約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
  6. 虚構の活動 : 日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

その上でカイヨワはさらに「遊び」を4つに分類しました。

わたくし哲学科や文学科出身ではありませんし、ゆるふわなブログなので、ざっくりといきます。詳細知りたい方は是非一読くださいませ。

  • アゴン (Agon) : すべて競争という形のとる一群の遊び
  • アレア (Alea) : 遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成り立つすべての遊び

  • ミミクリ (Mimicry) : 参加者が「その人格を一時的に忘れ、偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう」遊び

  • イリンクス (Ilinx) : 眩暈の追求にもとづくもろもろの遊び

上から一言で言うとアゴンは「競争」、アレアは「運」、ミミクリは「模擬」、イリンクスは「眩暈」の遊びです。作中にもたくさんの例えが出て来ますが、現代の日本にあてがうとさしずめ「競争」はスポーツや、もしかすると期末テストやなんかも分類できるでしょう。「運」は宝くじ、各種ギャンブルなど、「模擬」は演劇やお笑いなんかもそうでしょうね。「眩暈」はアルコールやタバコ、ドラッグなどで酔っ払うことや、なぜかあえてスリルを求めてしまう心境、たとえばジェットコースターに乗りたい欲求を示しそうです。

そして、それぞれのジャンルの中でもガチ度を示す2つの極を定義しました。

  • パイディア (Pidia) : 遊戯
  • ルドゥス (Ludus) : 競争

パイディアはガチ度(低)、ルドゥスはガチ度(高)という極を示します。

こういう軸があると、考えの整理に便利ですね。冒頭の例で言うと、ふざけた言動やカラスの雪遊びはなんらかの「模擬」の遊び、イヌのふざけはそれに「競争」の遊びの要素が入っているものかもしれないと、整理がつきました。

この文脈から、わたしが「あそび」が難しくなった理由はこんな感じかなと思います。

「競争」をしてきた場面ではすべて「あそび」の定義にはずれてしまっていた(たとえば受験勉強や、就職活動など)。

「運」だめししてきた場面は、そもそもそれが好きでは無いのであまりやってこなかった。

「模擬」は子供の頃は上手にできたけれど、成長するにつれなぜかそれが恥ずかしくなっていってしまい「あそび」として上手くできなくなってしまった。

「眩暈」唯一これは、アルコールの力を借りてすこしはうまくできている「あそび」の体験なんじゃ無いかなと思いますが、もはやそれなしでは「あそび」の行為がむずかしい「あそび」自体も出て来ている気がします。

なんか、「競争」であそべてこれたひとは羨ましいな、と思いました。