あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

ビラヴド - ビラヴドであって欲しかった物語

ビラヴド―トニ・モリスン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

ビラヴド―トニ・モリスン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

124番地は悪意に満ちていた。

物語は太文字の、この穏やかではない一文から唐突に始まります。 確かに124番地には悪意が、理不尽に死んでいった無名の黒人女性たちの、怨念の様なものが満ちていました。

語り手は、アメリカ社会で虐げられてきた黒人女性、という抽象的なもののような気がします。

ある女系の家族が124番地には住んでいます。祖母の名はベビー・サッグス、母の名はセサ、娘の名はデンヴァー、そして、ビラヴド。

セサはかつて白人の経営する農場「スウィートホーム」で女召使として働いていました。そこでデンヴァー父親であるハーレと出会います。ハーレは働いた金で自分の母親であるベビー・サッグスを白人から買い戻し、奴隷ではない自由な黒人とすることに成功しました。その代わりに自分はほとんどお金がないので引き続き農場で精を出す生活を続けました。そして結局自由の身となってもベビー・サッグスは街でひとり、息子とそのフィアンセがくるのを待つ日々を送っていたのでした。

スウィートホーム」の日々はそこで働く黒人奴隷たちにとってみると、まあ他に比べてもなかなか悪くはないものでした。ところが理解のあった農場主が亡くなり新しい農場主がやってきてからというもの、彼らにとって地獄の日々が始まります。常態化する暴力、理不尽なしうち、人権の無視、性的虐待などの日々に耐えかねた雇われ黒人たちは集い、農場からの脱走計画を企てました。そして唯一、当時身重の体だったセサだけが、無事に脱走に成功します。 こうして街のベビー・サッグスの住む家、124番地での3人の暮らしが始まりました。

そこへある日「ビラヴド」という名の、セサの娘だと名乗る少女と、死んだと思っていた「スウィートホーム」からのもう一人の生き残りである男性、ポールDが現れ、話は動き始めます。…

トニ・モリスンについて

トニ・モリスン - Wikipedia

トニ・モリスンは黒人女性であり、ノーベル賞を受賞している作家です。本作ではピューリツァー賞を受賞しています。わたしは西加奈子さんの何らかの文章からこの作家を知りました。

登場する二種類の女たち

生きている女たち

読んでいると実際にその様な仕打ちが黒人たちに行われていたというのは信じがたいほどグロテスクな描写もあり、なかなか辛いところもあります。それでいて本作が単に辛い物語ではなく、独特の味わいを残すのは理由があると思います。それはこの物語の語り口が変に誇張したり、変にデフォルメすることなくひどい現実はひどいそのまま描いているところ。そしてそんな現実に対して女性たちが女性ならではの柔らかさを持って、傷つきながらも健気であるようすがちょっと魔術的ともいえそうな独特な表現を用いて描かれているからです。ほかのトニ・モリスン作品は「青い眼がほしい」「ソロモンの歌」を読みましたが、この表現は彼女の文章という感じがします。

例えばセサの背中には農場主から鞭打た時の生々しい大きな傷跡が残っていますが、これを見て満開の「シブミザクラの木」(桜の木の一種)なんて表現する少女が出てきます。少女の名前はエイミー・デンヴァー。白人だけど貧乏で、同じ白人にこき使われている身分の少女です。ボストンにあるヴェルヴェットを売る店で最高のヴェルヴェットを買う夢を糧に生きています。彼女の髪の毛はボサボサ、体はガリガリで容姿はひどい状態ですが、セサの目線でもってエイミーは「良い手」をしているという表現が出てきます。褒め方が独特です。エイミーは生活のための実際的なたくましさと、肉体的なか弱さを極端に備えていた少女でした。

また例えばベビー・サッグスは街において、逃げてきた黒人たちの精神的支柱の様な役割を果たしていました。彼女は空き地で演説をします。畳み掛ける様な口調はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、アイ・ハブ・ア・ドリームを思い出しました。

「ここでは」と彼女は言った。「ここ、この場所では、わたしたちは生身の躰。泣き、笑う生身の躰。素足で草を踏んで踊る生身の躰。それをいつくしめ。強くいつくしめ。あそこでは、あの人々はあなたがたの生身の躰を愛さない。あの人々はそれを軽蔑してる。あの人々はあなたがたの目を愛さない。愛するどころか、抜き取ってしまいたいと思っている。あなたがたが躰にまとうその皮膚だって、愛していない。あそこでは、あの人々はその皮膚に鞭を当てるのだ。その上、おお、わたしの同胞よ、あの人々はあなたがたの手を愛さない。その手をあの人々は、こき使い、縛り上げ、くくり、斧で切り落とし、虚ろなままに捨てておくだけなのだ。あなたがたの手を、いとおしめ!いとおしめ!手を上げて、それに接吻するのだ。その手で他の人に触れるのだ。その手を合わせて叩いてごらん。その手であなたの顔を撫でるのだ。あの人々はその顔も愛しはしないのだから。あなたこそ、手であなたの顔を撫でるのだ。あなたこそが! <略> そして心臓の鼓動を、鼓動している心臓、それもいとおしむのだ。目や足よりもいとおしむのだ。これから先も自由の空気を吸い込む肺よりももっと。命を宿す子宮よりも、命を与える性器よりも。聞くがいい、もっと心臓をいとおしむのだ。なぜならこれが一番貴い宝だから

キング牧師が国家レベルでの夢をうたったのに対し、ベビー・サッグスはきわめて個人的なレベルで i have a dream とスピーチしています。その視点は女性ならではというべきでしょうか。

結構物語の途中途中でこのように歌の様な、詩の様なリズミカルな文章が入ってくるのも特徴的ではありました。印刷されたブルースと言った感じでしょうか。ブルース詳しくはないので、これを機に深掘りしてみたいなぁ。

上記のスピーチの根底には、彼女が農場から解放され自由な黒人になったその時の心境が濃く反映されています。そこには彼女が奴隷だったころ(ジェニーと呼ばれていた)には、いかに抑圧された世界で生かされていたかを思い知り、それに対して純粋に驚いた様子が描かれていました。あらゆる制限を受けて生きていると自分の鼓動や呼吸、声や姿、それらに強い自意識を向けることってとっても難しいと思うんです。なぜなら自分が主人公としての生活ではなくて、他の誰かが作った制限の中においての、他の誰かが主人公の生活の一部としての自分を演じなきゃいけないためです。そうしなくては生活が壊れてしまうのです。それがある日突然、しかもすでに人生も老年期にさしかかってからいきなり自分の物語を始めることを余儀なくされたベビー・サッグスは、自分も生きている人間だということを思い出し、ぎこちなくも人生を取り戻そうとするのでした。

何かが変だ。何が変なのか?何が変なのか?彼女は自問した。自分がどんな風に見えるか知らなかったし、知りたくもなかった。突然自分の両手が目に入り、目が眩み、簡単至極でどうじにきらきらと輝くような「この手はわたしが持ってる。この二本の手はわたしの手」という思いが生まれた。次に彼女は胸の中で、何かがドキンドキンと音を立てているのを感じ、他にも新発見をした。自分の心臓の鼓動だった。いままでずっと胸の中で鳴っていたのか?このドキンドキンと打つものは?自分が阿呆のように思えて、彼女は声を上げて笑い始めた。ガーナー氏は肩ごしに振り返り、大きな茶色の目で彼女を見つめると、彼も微笑んだ「何がおかしいんだ、ジェニー」 彼女は笑いを止めることができなかった。「わたしの心臓がこどうしてるんです」

死んだビラヴドについて

たくましく生きる生身の女性たちに対し、ビラヴドは表情が乏しく、うちに暴力性を秘めつつも日陰でひっそりと佇む様な存在です。

ビラヴドの正体は結局詳しく説明されることはありませんが、文脈的に誰とは言えない不特定多数の、理不尽な仕打ちの中で歴史に消えていった黒人女性たちの怨念が寄せ集まった亡霊の様な存在です。セサの娘だと名乗り家庭に侵入し、じわじわと女三世代の124番地の日常を蝕んでゆきます。…その様子は非常に不気味ですが、さみしい人なんだなという気にもさせられます。

怨念のような存在である彼女に beloved (愛されしもの) なんて名前が与えられているのには考えさせられます。

人から人へ伝える物語ではなかった?

最後の章、ビラヴドについて語られるなかで繰り返し出てくるフレーズがあります。「人から人へ伝える物語ではなかった」。 この物語は黒人の女性が代々引き受けてきた悲しみを、自分の娘にはさせまいとして代々奮闘してきた女性たちの物語です。彼女たちは辛い歴史は自分たちの世代で封印しようとしましたが、封印され切れず漏れ出してしまった存在が、ビラヴドでした。

生きていてどうしようもなく打ちひしがれて、結局悩みは同じ袋小路に潜り込んでしまって、誰かに相談するもまたその話か、とあしらわれたり、全く理解してもらえなかったり、あるいは理解が不十分でこちらが満たされることがなかったりすることがあります。

誰にも言えないこと、誰かに言っても決して減ることのない悲しみ、言ってもどうしようもないし言っても良いことがないように思えるからあえて言うことはしないこと、そんな悲しみはどうすればいいでしょう。

そんな時は、悲しみが滲み出でるままにしておく他ないのかもしれません。確かにそれは、あえて伝えるものではない性質のものです。しかし内に秘めて秘めてビラヴドのような悲しみの塊のようなものを作り出してしまうくらいなら、あるがままにしておくのが良さそうです。そして多分、滲み出た悲しみはその感情のピュアさ故に、他の誰かをゆさぶったり、時に支えになったり、身近に響くことがあるのかもしれません。

なんども違った目線からのストーリーを重ねることで物語を重層的にさせる手法は、南アメリカゴシック文学というジャンルで取られているらしいです。(ちょっとググった知識レベルです)印象的だったので、同ジャンルの他の作品も読んでみようと思いました。