あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

すばらしい新世界 - 500年後の人々はこれをディストピアとするか

書かれてから90年経った後の読者である、わたしの感覚からして、なにをディストピアとするかゆらぎを感じました。出版された当時や、作中当事者のいきる500年後はどうなのか、まあ一生叶わぬ関心を抱いた作品でした。

シェイクスピアおたくのイケメン野生児 meets ハイテク管理社会

対照的な二つの社会をぶつけてみて、読者に判断を委ねるような形の小説です。いまから90年近くも前に書かれましたが色あせ感は全くありません。仰々しい交響曲を流しながらぜひ、どうぞ。(書きながら裏でカルミナ・ブラーナ流してみてます。雰囲気めっちゃでる。)

この小説は、ユートピアつまり「楽園」の対義語である、「ディストピア」を描いた小説として、よく、ジョージ・オーウェル1984 と並んで語られることが多いようです。

しかし私は思いました。ディストピアってなんだろう。と。

それが指すのが作中のロンドンのことだとすると、え?? むしろ、ユートピアじゃないの?? って思ったのは私だけなのでしょうか。… … 人間が暮らす社会の究極のあり方って、理想郷ってどんな場所を指すのでしょう。

あらすじ

終戦争を経て再建した近未来。西暦でいうと2540年、(小説の中ではAF632年。西暦に変わって<フォード紀元>が採用されているため、After Ford です)いまから520年後の人間は、出生の段階から社会に管理されます。社会階級のピラミッドモデルに従って、アルファからイプシロンまでランク付けされた人工授精の胚は機械的に管理され、充分に育った後は「出瓶」されます。

面白いことにそこでは、「親」や「父」「母」なんていう、実の遺伝的つながりを示唆するようなことばは、人前で口にするのが憚られるような、卑猥な意味を含んだものとして扱われます。

ピラミッドの頂上から、いわゆるエリートであるアルファ、次いでベータ、ガンマがおり、デルタとイプシロンに至っては、ほとんど単純な肉体労働専門の、知的レベルの低い水準で大量生産され、しんがりをつとめています。デルタとイプシロンは、バイオテクノロジーを用いて人工的な83つ子や92子など、多胎児としてある程度のブロック生産されています。彼らはブロック単位で決まった仕事、例えば病院のスタッフ、ビルの清掃員、工場の労働者などとして配属させられます。

害虫と主な病原菌は駆逐されたクリーンな世界です。

憂鬱な気分になった時には、アルコールやドラッグから副作用をまるっと排除した魔法の薬、「ソーマ」を服用することですべて解決です。これは国から定期支給されます。

ソーマ10グラムは十人の鬱を絶つ

人々は、例えば上記のような金言・格言を、幼少の頃から睡眠学習で頭に刷り込まれています。その影響でほとんど争いが起きることなく、社会に都合の良いように人々は行動をするようになっています。

そんな「すばらしい新世界」でひとり、孤独をかこっていたのは、アルファクラスの優秀な心理学者、バーナードでした。彼は他のアルファと比較すると小柄なのがコンプレックスです。そのためグループの中で一人だけ違いを、孤独を意識することが多いのです。かれは滅多なことではソーマを吸いません。

そんなバーナードはある日、先進国の管理社会を抜けだし、ロンドンの彼らとは真逆の居住地域、最後に残されたレガシィな人間の生活の仕方を見に、南米を目指します。そしてそこで、現地の住人に混ざって生まれ育ち、レガシィな暮らしをする白人男性、ジョンとであうのです。

このジョンは集落に唯一のこされた外の世界の本、シェイクスピア全集をすみからすみまで読み尽くした、おたくちゅうのおたくです。彼の発言はいちいち、何かしらの作中から引用したものになりがちです。

バーナードはジョンを連れてロンドンに戻るのですがそこで彼らが辿る運命は…

という概要です。

ロンドン、ユートピアじゃね?

未開の南米の集落は非常にプリミティブな生活が営まれているのですが、そこの描写はあからさまに「ディストピア」的です。ボロボロの老人、血、病気、儀式めいた行為に正当化される理不尽や暴力、臭い…など。

一方のロンドンは先述の通り、徹底的に人口と環境が管理された社会です。私にはこれをディストピアとする理由が見当たりませんでした。ですからジョンの辿る行動は結構不毛なものに思えて仕方がありませんでした。

黒幕は… というか一番上のポジションの人はすべてを承知している

すべてを承知した上で、俯瞰して見てる重要人物がいるパターン。でます。本作でも。3/4くらい読み進めたところで出てきますが、彼の発言に特に引っかかるところのない自分がいました。

余談ですが、このように、いろいろあったしすべての事情を心得ているけど、その上であえてそのポジションにいるトップが、その世界のからくりを語るシーンっていうのは毎回ゾクゾクします。どんな作品においても、待ってました!!感が最も高いシーンです。

「美」「真」か、それとも「幸福」か

ディストピア化」した作中のロンドンは「美」や「真」を犠牲にして「幸福」をとったと説明されます。しかし全面的に私はそうは思えませんでした。

結構最初から最後まで、新ロンドンの人たちのサイドで読んでしまった私にとって、むしろジョンの動きは暑苦しく感じるくらいでした。

1930年代からこうも感じ方って変わってしまったのでしょうか。私だけ特殊なのでしょうか。それの何が懸念なのだろう、と読み返しても結局腑に落ちず。たまに確認に戻ってきたい作品です。

例えば、痴情のもつれ、毒親問題、共依存アダルトチルドレンetc… は、ある特別な間柄の関係内において、一方の感情が他方に対しアンバランスになることによって生じる問題と、ざっくりくくれるかと思います。

新世界のロンドンでは、親や、特定の異性との限定的な付き合いを撤廃してしまうことで、それらを解決しているのです。

みんなはみんなのもの

こうしたスローガンのもとに、同じように瓶から生まれ、階級ごとに同じように育ち、奔放に異性関係を持ち、とにかく関係が偏らないような社会が成り立っています。

副作用として、新世界ではエモーショナルな感情の表現がみんな下手くそになります。表現したい気持ちがあるのに、その伝え方が分からないし、そもそもそんなことを考える人間自体、殆ど存在しなくなります。

というのもそこで人の会話は、殆ど睡眠学習から得たスローガンを繰り返すようなものになるからです。

クリーンで、薄っぺらで、みんな幸せなディストピア。しかし強い感情が絡むことのない、そこ特有の美や真実ってのは、無いとは言えないと思います。

カジュアルな「幸福」。それも上等じゃないか、とぼんやり考えながら読んでいました。