あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

マチネの終わりに- 現在は、過去と未来の矛盾とな

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 夏の終わりに近所の川のほとりで 「マチネの終わりに」を。ベンチでページを閉じ終えると、セントラルパークでのラストシーンとシンクロしました。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

ほんと、そうだなあと、思いませんか?そうであって欲しいとも。

なんとなく、感覚ではわかっていたことでも、こうスッキリ語られると改めて、すとん、と入って来るものってあります。わたしはいつでも過去を生き直している、と。

作家さんって、こういう、日々の隙間からこぼれ落ちていってしまう、なんとなくのあるあるを拾って、きれいに整理し直して見せてくれるのがうまい(といか、そういう職業なのか)なあと、尊敬します。

過去を再構築することで、未来につなげていくことの出来る、大人たちのラブストーリーです。

天才肌のクラシックギタリスト蒔野(38)と、日系フランス美人ジャーナリスト洋子(40)の五年にわたる関係が、知的で上品な文体で綴られた物語です。二人は初めて合った時から互いに引き合っていたものを感じつつも、些細なきっかけで少しずつすれ違ってしまい…どうなるの…? という大筋です。 (雑だな…) 

自分は作中に出てくる男女のような才能も美貌もない凡人ですが、飽きずに最後まで読むことができました。才能があってもなくても、美醜問わずとも、かつて、その人にだけはどうしても伝えたい、意見を聞いてみたい、って気持ちを抱ける、特定の誰かがいたことのある人なら「すとん」と入って来るものがある小説だと思います。

ちなみにマチネとは、広辞苑によるとこんな意味だそうです。

 matinée (もと「朝の間」「午前中」の意) 演劇・音楽会などで昼間の興行。

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中でも特にですね、過去をアップデート出来れば突破口はある、という登場人物たちの態度と、アラフォーな大人になってもこんな素敵な恋、ありなんだという、明るい印象が、心に残りました。

未来って

小説の中の彼らは、過去を再構築しようと積極的に動きます。たとえば、過去に残してしまった小さな嘘は告白し清算した上で、次の関係に繋げようとする態度です。それに、あの時はこう思っていたけど、今はこうだから、…。という態度。読後の印象がどこか爽やかなのは、登場人物たちが各々にそうやって行動し続け、澱のようになってしまった記憶をアップデートしようとする態度があるからだと思いました。

過去の捉え方が変われば、ちがういま、になります。

未来とは、まだなくて、これから作らなきゃいけないものです。普通の感覚でいうと、過去を踏まえて、多少なりともそれよりは良く、最低でも悪くなることはないようにしたいものです。だから、未来、の、最先端の際にあるいまは、過去と未来の矛盾と、作中で呼ばれていたのかも知れません。

一方で、過去の再構築をするためには、それまでの土台の強さというか、体力というか、なものが求められると思います。

ひとり、自らの手で命を絶つ選択をする人物が出てきましたが、彼を他と対比させてみると、再解釈に耐えうるような、次に繋げたい土台が見出せれなかったのだろう思いました。彼の存在は作中においても一際リアルに思いました。努力しているつもりでも社会的な評価となって報われない努力は、努力が足りないということになるのでしょうか。

この作品では深く言及されていませんでしたが、これは興味深いところです。

憧れちゃう、静かに力強いアラフォー大人の恋愛感情

世界に意味が満ちるためには、事物がただ、自分のために存在するのでは不十分なのだと、蒔野は知った。

そんな出会い、一生の中で一体何回できるでしょう…一度でもこれに気付かされるような出会いがあるだけで、だいぶその人は恵まれているのではないでしょうか。

蒔野は、天才の名をほしいままにずっと第一線のギタリストとして活躍してきました。洋子と出会うまでは本当に自分とギターの世界において充足していたのかもしれません。その人物による胸中ですこれ。

何かを見たり聞いたり経験した時、自分の中で充足させるには収まりきれず、どうしても感想を分かち合ったり、意見を聞いて見たい人物ができる。そんな出会いの過程が描かれていました。

いい大人同士のはずが、会話しながらもう嬉しくなっちゃって、相手の話のオチを聞く前にはにかんじゃったりとか、生活が弾みだす様子とか、アラフォーの作者が同世代の登場人物を使い、そういうものを描いているところが良かった。

恋愛をし直していることに気づいたときの一文が非常に印象に残りました。

なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、愛したいという情熱の枯渇より、愛されるために自分に何が欠けているのかという、十代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである。 

美しくないから、快活でないから、自分は愛されないのだという孤独を、仕事や趣味といった取柄は、そんなことはないと簡単に慰めてしまう。そうして人は、ただ、あの人に愛されるために美しくあいたい、快活でありたいと切々と夢見ることを忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体、何だろうか。

これを読んだ時にドキッとしました。確かに最近サボってないか、誤魔化していないか!?と自問してのドキです。わたしはいつまで恋していることができるのでしょう。思うに恋は、人が「活き」、若くあるための源です。

対象は特定の恋人でもいいし、理想の自分の姿でも、アイドルでもいいし、アーティストでも、誰でもいいと思います。それが自分を動かす動機、バイタリティたり得れば…

オシャレな女性を見ると、よく、彼女たちは誰のためにそんなに頑張っているのだろうと思います。よくよく見ると、個々におしゃれの目的が違うことにも気付かされます。男ウケしそうなオシャレ、自分の体型をよく見せるためのオシャレ、武装としてのメイク、オシャレ、個性のアピールのためのオシャレ、同類の仲間を探すための特定の形式に従ったようなファッション。

男性ももちろん同じです。彼らはオシャレに無頓着な人とは異なり、見えない行動原理に動かされて、めいめいに最大限よく見せようとしている努力が感じられて、オシャレしまくっている人を見るとわたしは尊敬ににた感情を抱きます。

わたしはこの見えない各々の行動原理は、恋に似たものじゃないか、と思います。