あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

浮世の画家 - 戦後の責任意識ってものについて初めて考えさせられた

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

京都・大阪市民読書会 さんに参加してきた際の課題図書でした。 Kazuo Ishiguro ノーベル賞受賞記念ですね。 「わたしを離さないで」しか読んだことがなかったので良い機会と思い、こうでもないと手に取らなそうなこちらの作品をチョイスして参加しました。 Kazuo Ishiguro 読んだの2作目なので正直文体がどうとか、彼の持ち味がどうとかまでは理解に至っていません。

あらすじ

はじめに「両親に」と銘打たれ始まるこの作品は、1948年~1950年の戦後長崎が舞台です。 戦中に画家として活躍した初老の男性、小野益次郎の視点で、回想を交えながら日常が語られます。 小野は長男を戦争で失い、戦後には妻を病気で失います。 生きている家族、二人の娘たちのうち長女は嫁いでいるので、末の娘とともに暮らしています。 戦中は地元の画家の師事の元力をつけ、表彰されたり、独立したあとは弟子に囲まれもてはやされた小野ですが、 無条件降伏ののちにアメリカの専領のもと、民主化推し進められ、価値観が転向してしまってからは画家業を引退しています。 そんな小野が末娘の縁談話が反故になった事件をきっかけに、回想を交えながら自身の生き様を省みるような内容です。

まず翻訳のうまさを思いまして、ほかは戦争後に生き残った芸術家の責任意識、表題に込められた意味を考えるのが個人的にポイントでした。

翻訳の妙

翻訳がうまいってこういうことなのかしら、と初めて思いました。

Kazuo Ishiguro の両親は長崎出身です。彼自身も5歳までそこにいたとはいえ、ほとんど記憶はないでしょうから、描かれている長崎のようすは、彼が贔屓にしている日本映画から受けた影響と、両親からの話? にヒントを得ていそうです。読書会でも意見がありましたが、それにしては、多少の違和感はあるもののなかなかうまくひとつの戦後「ナガサキ」像が描かれているように思います。スルスルと読むことができました。

読みやすさに大きく貢献していたのが、翻訳のうまさだと思います。本著の翻訳者 飛田茂雄 さんは(これも読書会で教えてもらいましたが)名訳者らしいです。本著はいわば逆輸入ものの海外文学ですが、ネイティブ日本人の近代文学作家の作品のような感覚で文章を味わうことができました。これは...すごいですね。

戦時中の言動に対する責任意識

理想に燃えていた戦時中

小野ははじめ歌麿の浮世絵を当世風に解釈し直して表現するのが上手な画家、モリさんに師事を受けていました。しかし松田という社会活動家の男と出会い、独立します。

ここ何年ものあいだ、多くのことを学びました。歓楽の世界を見つめることも、そこにはかない美しさを発見することも、ずいぶん勉強になりました。 でも、もうほかの方向に進む時期が来ているような気がします。 先生、現在のような苦難の時代にあって芸術に携わる者は、夜明けの光と共にあえなく消えてしまうああいった享楽的なものよりも、もっと実体のあるものを尊重するよう頭を切り替えるべきだ、というのがぼくの信念です。 画家が絶えずせせこましい退廃的な世界に閉じこもっている必要はないと思います。先生、ぼくの良心は、ぼくがいつまでも〈浮世の画家〉でいることを許さないのです

理想に燃えた小野は独立後、社会的なプロパガンダを含んだポスターで表彰されたり、多くの弟子をとってもてはやされます。彼の人生のハイ・タイムといえます。 しかし敗戦となり、体制がころっと変わったのちに彼は画家を引退してしまいます。彼は自分の作品を一枚も家に飾ることもしません。 なぜ、というのは説明されません。

自分の過ちを見つめる戦後

戦時中に好戦意欲を煽る様な活動をした人物の戦後のあり様について、2つのスタンスが繰り返し持ち出されます。つまり、死んで詫びるか、重いものを背負いながら生きてゆくべきか。前者を主張する人はこういう意見です。

勇敢な若者はばかげた目的のために命を奪われ 、ほんものの犯罪人はまだのうのうと生きている 。

だから死ねってことです。作中でも軍歌の作曲家が自殺した例が引き合いに出されます。実際にその様な方も少なくなかった様です。 この作品は私にとって、敗戦国となったあとの人の心の拠り所のなさを考えるきっかけとなりました。

小野はどちらかというと後者であることを主張しますが、行いに対しての反省の心はなく、むしろ自分も被害者だったという様なスタンスです。

過去の責任をとることは必ずしも容易なことではないが、人生行路のあちこちで犯した自分の過ちを堂々と直視すれば、確実に満足感が得られ、自尊心が高まるはずだ。とにかく、強固な信念のゆえに犯してしまった過ちなら、そう深く恥じ入るにも及ぶまい。

私は、もし小野が戦後も絵筆を取ることを続けていた上でこれを言っているなら格好いいと思いました。絵筆を捨ててしまった時点で彼は画家としてのけじめをつけないまま宙ぶらりんになってしまった様な印象を持ちました。

An Artist Of The Floating World

一人称で語られているということもありますが、全編を通してかなり彼のフィルタを通して、小野の都合の良い様なものの見え方になっています。彼の戦中の画家業が相当に社会に影響を与えたように回想しますが、どうやら実際は微々たるものだったということが徐々に明らかになります。これがなかなかグロテスクでした。

原題は An Artist Of The Floating World です。An Artist, は芸術家のことを指しますがこれは、物語の後半で小野の長女が小野に向けていうセリフと対照的です。

お父さまはすばらしい絵を描いたわ。だから、もちろんほかの絵描きさんのあいだではとても影響力を持つようになった。でも、お父さまのお仕事は、わたしたちが問題にしているような、あの大きな事柄とはほとんど関係がなかったでしょ。お父さまは画家にすぎなかったんですから。

この 画家にすぎなかったんですから の部分の原文は、 painter とされているようでして、 artist ではないんです。彼が思っていた様な思想的に影響をあたえるアーチストでなく、ただの絵描きだったんです。

ふわふわと時勢に応じて染まってしまい、よく言えばその時代の優等生的スタンスで行動してしまってきた小野の話だから「浮世の画家」なのでしょう。 小野の弟子は戦後に離れてしまい、娘夫婦や孫は早くも新体制の価値観に順応し始めており、彼らとのズレが虚しく描かれていました。 街の様子もすっかり様変わりし、戦時中の名残は急速に失われてゆきますが、小野の心の中にだけはあの賑やかだった時代の歓楽街が生きているのでした。

もちろんわたしは、夜もなお明るい酒場や街燈の下に寄り集まって、たぶん昨日オフィス街で見た若者たちよりも騒々しいけれども、同じくらい陽気に談笑していたあの人々を思い出すたびに、戦前の日々や、そのころの歓楽街にある種のノスタルジアを感じる。

戦中〜戦後ではありませんが、現代でもこういうものはありますね。老朽化対策やイメージアップのための再開発によって慣れた街並みが失われてゆくのをみると、わからなくはない感情でした。