あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

そんな日の雨傘に - 悩み多きように見えて実は一番充実している男の話

そんな日の雨傘に (エクス・リブリス)

そんな日の雨傘に (エクス・リブリス)

本のジャケ買い(ジャケット買い、表紙のインプレッションで即買いすること)をしたこと、一度くらいはありますよね?

私はもっぱら文庫本コーナーにたむろする人間でしたが、このごろブックオフの単行本コーナーを物色するのがアツいです。

文庫にはなくて単行本でしか味わえない楽しみといえば、装丁の素晴らしさを愛でること。

「そんな日の雨傘に」は、そんなブックオフの単行本コーナーで見つけた、ジャケ買い不可避の一冊でした。しかもこれが、大当たり。

他のレビューを見ても、装丁に惹かれて手に取った方は多そうですね。

あらすじ

46歳独身、ほぼ無職、しかも彼女に振られたばかりの男性が主人公。名前は最後までわかりません。

どうもそれなりにモテるし、学もある模様。

しかし彼は

自分は、自分の心の許可なくこの世にいる、という気分。正確に言うと、私はずっと、誰かが、きみはここにいたいかい、と訊いてくれるのを待ち続けている。

そんな気分を持っており、そのためか定職らしい職業にもつかず、所在無さげにふわっと生きています。そんな気分に共感を覚える人はきっと、面白く読めると思います。

仕事は靴の検査員。メーカーから新作の靴を受け取り、市場に出す前にはき心地をレビューをするアルバイトをしています。しかしそれもクビになりそう。そんな矢先に街で、昔、つきあいがあった人間たちと再会してゆきます。

これは一人称で、時に哲学的に、詩的にするすると紡がれる灰色のモノローグです。

何が起きるでもないですが、ちょっぴり開放的な気分の読後感で、明るすぎもせず、暗すぎもせず、11月のこの気分にぴったりでした。

特に面白く読めた2点を書いてみます。

〈消えたい病〉と「退屈」

〈消えたい病〉だけじゃなく、おまえはなにか別の情熱を持たなくちゃならんだろうが。といいつつ、自分への毒舌を聞いているのはなかなか心地がいい。その毒舌にふくまれている甘い毒が、罵られている自分をその反対にひっくり返すから。さらに毒舌に隠れている誇張が、自分を同時に無罪放免にする。

彼は原因不明の憂鬱を抱えています。(それは詳しく語られることはありませんが)どこか罪の意識を抱えながら生きているような部分を感じさせる発言をします。

それでいて自分の人生が「無許可人生」のようだ、と度々言及しています。

彼は、一体誰からの「許可」を求めているのでしょう。誰からのどんな「許可」があれば、彼は許された気持ちになるのでしょう。行ってしまった恋人が戻ってくることにも救いは求めていないようですし、特に信仰が深いわけでもなさそうです。彼自身よくわかっていないんだと思います。ただ、なんとなくそう。

「無許可人生」だから情熱がなんにせよもてない。消えたい病が時々現れる。

彼はふらふらとしつつ昔の知り合いと再会を果たし、そのメンバーに誘われたパーティでのその場の気分で、でっち上げの職業についている旨を名乗ります。

バルクハウゼンさんがおずおずと、どんなお仕事に就いておられるんですの、と私に尋ねる。今夜のような晩でも自分の人生が認可されているわけでないことを思い出して、私の気分はちょっと損なわれるが、嫌な気分を抑え、いくらか酔いも手伝って、勢いに任せて回想術と体験術の研究所を主宰しています、と答える。

スピリチュアル? でいかにもあやしい研究所ですが、やはり主人公と近いものを感じる空虚感というか、<消えたい病>のようなものを抱えているバルクハウゼンさん(女)は興味津々で深掘りしてきます。主人公は、自分のものを訪れる患者について、こう答えるのですが、これは主人公自身のことを言っているように思えました。

私どものところにいらっしゃるのは、とためらい気味に、かつ、物慣れたふうに答える。自分の人生が、長い長い雨の1日のようで、自分の身体が、そんな日の雨傘のようにしか感じられなくなった人たちですね。

このタイトルにもなった人生の形容を行なっている部分が、非常に詩的で、印象的でした。

バルクハウゼンさんはそのあと、本当に研究所のことを真に受けて信じて、主人公に相談にやってきます。その時彼女はひどい「退屈」に悩まされている旨を打ち明けます。この「退屈」ひいては「空虚感」ともいえるこれ、とうまく付き合うことについては、作中で何回か言及されます。

もうすぐ週末なのに、と彼女が言う、なにをしたらいいか、さっぱりわからないんです。

と切り出し。

しようと思えば、なにをしてもいいんです、と彼女は語る。でもすぐにむなしくなことが、はじめからわかってしまうの。

あー。覚えがあるような、どうしようもなく持て余す感情ですねこういうの。これに対して主人公、

(それは)単独性退屈ですか、それとも集団性退屈ですか。

この文脈。まさに最近読んだ 「暇と退屈の倫理学」で紹介されていたハイデッガーの分類した「退屈」そのものです。ちょっと興奮しました。ドイツの作家にとっては、日本以上にこう言った思想が身近なんでしょうか。

彼女はどちらの退屈にも悩まされているということでした。それに対して主人公は何を仕掛け、それが彼女と主人公をどう変えたのか。

それは小さいけれど、現実的にありそうで非常によい帰結だったと思います。些細なことで救われるといういい話です。ほんと些細なこと。

もう一人、「退屈」に苛まれている女が主人公の周りに出てきます。ガールフレンドのズザンネ。彼女の部屋にはモノが溢れている様子を見て、彼女の様子を見て、彼はこう切り出します。

きみは、退屈な人間になる勇気を持たなきゃいけない、と私は言う。

どうして? 

長い間には愛も退屈になる事は否定できない。

私にはそれは無理だわ。

どうして? 

そもそも、この半生、自分が存在してないんじゃないかって思って苦しんでるんだもの。

退屈な女が1番幸せになるんだ。退屈な女たちの愛は長続きして、深い、と私は言う。

「退屈」が募ると<消えたい病>に発展するのは割と自然なことなんじゃないかと思います。なぜ「退屈」がこんなにも辛くさせるのか、ひとはなぜ「退屈」と思うのか、「退屈」とはなにかというところについては、上述の「暇と退屈の倫理学」が視野を広げてくれました。それについてはまたおいおい ..

ゲルトルート・憂鬱

もう一個好きだったフレーズがありまして、それはゲルトルート・憂鬱です。

主人公は頭の中でウダウダ悩むことのプロと言えますが、また彼は「憂鬱」「孤独」とうまくやっていくプロであるとも思います。

奴らに悩まされ、時にギリギリのところまで追い詰められますが、それゆえに相手のことをよく知っているし向き合っています。彼が「憂鬱」に可愛らしい名前をつけて対峙するシーンが印象的でした。

街の中で突然のひどい「憂鬱」に襲われた時のことです。勝手に脳内で会話が始まります。

憂鬱をうまく笑い飛ばしたくて、ゲルトルートという名前をつける。

こんにちは、わたし、ゲルトルート・憂鬱です。ちょっとご気分を引き下げたいんですけど、よろしいかしら?

人生に別れを告げてはいかが? 取るに足らないやつだって証明されているんですもの。

こっからゲルトルート・憂鬱(このフレーズ好き)との対話が続き、結果うまく退けることに成功します。「憂鬱」って厄介なやつでも、可愛らしい名前をつけてやって、丁寧に付き合ってやるこの姿勢、すごくいいなって思っちゃったんです。でもドイツ語圏の名前のこのゲルトルート以上に、日本語の中でしっくりくる名前なんてなさそう ...

以上、一見酷く憂鬱に悩まされている気難しいやつと見せかけて、実は一番モテているし飄々と生きているし、結果、考え続けることをやめていないという点で、非常に魅力的な主人公のお話だったということでした。そんな日の雨傘のような視点を持っていきている男だからこそ、晴れの世界には生きていない、他の雨傘の下にいる人にそっと寄り添えたってことですね。

詩的な文体がまたよかったんです。翻訳文学はそういうところもよい。