あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

中動態の世界 … 自己理解とセルフコントロールで自由を手に入れようと読めた

「人はなぜ暇を潰そうとするんだろう、なぜ何もせずにはいられないのだろう」という疑問から手に取った暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)がとっても面白かったところから、同じ作者の本ということで読んでみたかった「中動態の世界」。

医学書院から出ているところ、薬物依存患者との対話から始まる構成のところもミソです。しっかり実用の方向を向いてる、新しい考え方の本でした。第16回小林秀雄賞受賞作です。

仕方なくとか、なんとなくやっている、という状態のことを中動態って考えでバシッと説明したうえで、では、自分で思うように自由に生きるにはどうすればいいか? と考えさせてくれる内容でした。

全体の構成

9章からなりたっています。

  1. 能動と受動をめぐる諸問題
  2. 中動態という古名
  3. 中動態の意味論
  4. 言語と思考
  5. 意志と選択
  6. 言語の歴史
  7. 中動態、放下、出来事
  8. 中動態と自由の哲学
  9. ビリーたちの物語

能動態・受動態しか学校で教わることのない私たちのものの見方で生じている問題を明らかにしてから、「中動態」という馴染みのない考え方を紹介してきます。

実は中動態は哲学や言語学の世界では、そんなに珍しいものではありませんでしたが、従来の研究のされ方について重大な読み違いがあった点を読者と振り返る流れがそれに続きます。

次に意志を持って人は何かを自分の自由に選択することができるか(自由意志はあるのか)、という話を紹介し、中動態の概念と合わせて検討します。

最後に「ビリー・バッド」の物語を中動態的なものの見方で読み直し、理解を深めていました。

所感

とっても親切な文章、明確な筋道立て

そもそも、中動態とは? から始まると思いますが、これは受動でも能動でもない態度を指し示す考えです。ちゃんと本文でもその定義から、歴史を追って丁寧に説明してくれます。

各章に入るとすぐに、前章までの要約が載っているため、少し前章まで理解が怪しくても、次の章に入ったその頭の部分が理解の助けになってくれて、読者が読みやすいように親切に書かれている本でした。

責任とは

面白かったところ。

人は能動的であったから責任を負わされるというよりも、責任あるものとみなして良いと判断されたときに、能動的であったと解釈される

授業中に寝てしまう生徒が眠い原因を、苦学生で深夜バイトをしている場合と、夜更かししてた場合とで接される態度が異なることを例に挙げて説明していました。言われてみればなるほどな視点です。

中動態とは

能動…する⇄受動…される

↑この枠組みを一旦離れましょうと、本書では言います。 その上で、バンヴェニストという哲学者の考えを用いて、こうだ!といいます。

能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある

能動⇄中動 だけで、そもそも受動はない枠組みで考えます。

カツアゲをする場面を例に取ります。カツアゲされる側は、お金を出しますがそれは能動的なのでしょうか、受動的なのでしょうか。彼は本当は出したくないけど仕方なく差し出します。これが中動態で説明できるといいます。

権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑えつける

哲学者、フーコーは権力と暴力を次のように定義しました。つまり、カツアゲをする側は権力を行使して、他人において完結する行為の過程にいるので能動的、される側は権力を行使されてはいるものの、物理的には強制されてはおらず(完全に受動とはいえず)、彼の行動で完結する行動の過程にいるので中動的と説明していました。ようはどっちがボールを持っているか、ということなのかな。…

本文帯にもありますが

強制はないか自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それがみえなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。

ふむふむ。

自由とは

では、完全に暴力などの受動に屈してしまわぬように、或いは権力の中でも出来るだけ自由であろうとするにはどうすべきか、というのを、スピノザを引き合いに出して説明していました。

スピノザはいかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができるという

としています。明晰に認識するには各々で自らの本質をよく分かっておくことが大事そうです。

我々の変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。

われわれの本質は、スピノザによると「コナトゥス」というもので、様態の諸部分の関係を一定の割合で維持しようとする力のこと、「各々の物が自己の存在に固執しようと勉める努力」のことです。

個人的には次のように理解しました。つまり、どんな状況に置かれて、どんな行動を取ろうとも、その “変状” がいつもの私の “本質” によって、私らしい行動かどうかで説明がつけられれば、中動の過程に置かれているとはいえ受動ではない、と言えるのではないか、と。著者も次のように書いていました。

自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ

まとめ

自己理解とセルフコントロールダイジですねーっていうことを再三言われたように読めました。そしてそこに至るためには小さな習慣の積み重ねしかないのだと…

手始めに、生活習慣管理アプリを入れてみました。