あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

最後の物たちの国で … 何が残るか

最後の物たちの国で

最後の物たちの国で

大学生の頃、ポール・オースターという作家を知りました。ツイッターで、小説の引用を細切れに呟くアカウントから流れてきた「ムーン・パレス」冒頭の文章が、なんだか残って離れなくなったのがきっかけです。貪るように「ムーン・パレス」「孤独の発明」「偶然の音楽」「ティンブクトゥ」「幽霊たち」と、読み進めて行きました。

さて、最近のある週末、わたしはAmazonプライム・ビデオが勧めるがままに映画「デイ・アフター・トゥモロー」と「アイ・アム・レジェンド」を鑑賞しました。すると不思議なことに、読んだことすら忘れていたこの「最後の物たちの国で」を急に思い出したものの、物語の結末がどういう形で終わったのかが思い出せず、執拗に気になってしまったのでした。悪い印象ではなかったことだけは覚えていたのですが。そこでエイヤと十年ぶりに再読した次第なのです。

再読って、いろんな動機があるでしょうが、人に思い出させて読ませる力のある本の場合は、つまんないことから思い出させて、気にさせて、こんな形の運びになるのでしょう。当時の自分対、今の自分、のつもりでページをめくります。

主な登場人物

  • あなた ... 手紙の読み手。
  • アンナ ... 手紙の書き手。19歳のユダヤ人。兄の消息を追って「国」へ行く。
  • イザベル ... 「国」の住人。親切な初老の女。
  • ファーディナンド ... イザベルの夫。元看板屋。引きこもり、ボトルシップを作ることだけが生き甲斐。
  • イリアム ... アンナの兄。新聞記者。
  • サム ... ウイリアムの同僚の記者。
  • ヴィクトリア ... ウォーバン・ハウスの管理人。40歳くらい。
  • フリック ... ウォーバン・ハウスの手先が器用な使用人。鈍重な優美さのある老人。
  • ウィリー ... フリックの孫。学習障害がある。
  • ボリス・ステパノヴィッチ ... ウォーバン・ハウスへ物資を供給する商人。

最低限のあらすじ

物語の筋そのものより、行間から、その崩壊しつつある世界観を堪能することに、醍醐味がありそうな小説でした。

...

「あなた」へ宛てた手紙として綴られている物語です。 手紙の書き手であるアンナは、半年間消息が分からなくなっている兄ウイリアムを追って、彼の赴任先である国へ船で向かいました。しかし告げられたオフィスの住所へ行ってみると、建物はおろか道すら残っていない状況でした。アンナはしばらく兄を探すことにします。

その国は荒廃し、自殺志願者が飛び降りた後なんかには人々が我先にと群がり、彼の身ぐるみ一切を剥いで明日の各々の食い扶持に変えようとする、そんな有様でした。アンナは「物拾い人」としてやってくうちにイザベルと出会います。イザベルは天性の才覚を持つ「物拾い人」でした。アンナは彼女が事故にあいかけたところを救います。その流れでアンナはイザベルの家に住むことになります。

いろいろなことがおきます。(語りませんが、どう考えて良いか解釈に困る出来事がおきます。)

イザベルの家を出なくてはならなくなったアンナは、ある日路上でのゴタゴタに巻き込まれます。そこから逃げ込んだ先が公立図書館でした。そこでサムと出会います。アンナは彼を手伝ううちに、彼を愛するようにもなります。

またいろいろなことがおきます。(余裕のない人間の残酷さに辛くなることがおきます。)

気がつくとアンナは慈善施設、ウォーバン・ハウスで手当てを受けていました。アンナはそこの管理人、ヴィクトリアと親しくなり、彼女の下で働くことになります。ハウスでの日々の中でアンナは、サムと再会を果たします。

ウォーバン・ハウスは故人の蓄えを小さく崩しながら経営を続けてきましたが、それも無限にはありません。もう行く先が見え始めてきた時、アンナはどこへ行くのか。

という話です。

所感

これは…二人称小説

最近ブログ記事のカテゴリに話し手の人称を意識して入れています。特にこれといった深い意味があるわけでは無いのですが…なんか試しにやってみたくて。とにかくその取り組みを始めてから、初の二人称主体 の小説が本作でした。

一人称小説…わかる、わたし視点だろう。三人称小説…わかる、神の視点だろう。と、ここまでは良くあるし分かりやすいのですが、これまでそう言えばその間の二人称だけ一回もなかったことはなんとなく気になっていました。でも改めて二人称の小説って、一体どんなものになるのだろうと思っていました。

もしかすると本作はそれなのです。なぜなら読み手の視点となるのは「あなた」ですから。(でもそこに特別意識は感じさせず、語りかけられている「あなた」と読み手のわたしがシンクロさせられる作り。)

ゼロに近づいてゆく世界

限りなくゼロに近づいていくことによって何が見えてくるか、というのは八十年代のオースター作品の主たるテーマ

訳者あとがきに、簡潔に本作にまつわる指摘がこうありました。そして本作は国全体でそうなった場合の話だとも。 作者が用意した「物が限りなくゼロに近づいていく」世界は、政治が腐敗し国の自治が解体して軍が横暴を働き、逃げられる人民は逃げ、娯楽品はもちろん食料、日用品などあらゆる物質インフラが枯渇した世界でした。

また、その土地では物理的な物の枯渇だけでなく、それに伴い、人の心の中の「物の価値」が意味を薄めつつありました。ここでも「限りなくゼロに近づいて」います。絶望的な日々の中で悲観した人々の間では「いかに死ぬか」という関心事が大きな意味を成し、様々なユニークな派閥を生みました。

すこし紹介すると、その人が出来る限りの贅沢のちに緩やかな死を提供する「安楽死クリニック」、死ぬまで全力で叫びながらひたすら街を走り続ける宗教のような集団「走者団」がいます。特に飛び降り自殺は「最期の一飛び」と称され、行為者は英雄的に捉えられるのでした。

しかし作者の関心は、ゼロに向かう世界をただ描くことではなかったはずです。そうそう、わたしはそこに関心があってオースター作品を読み漁っていたのでした。

何もかもがばらばらに崩れたあと、そこに何が残るかを見きわめること。もしかすると、それこそが一番興味深い問いなのかもしれません。何もなくなってしまったあとに、何が起きるのか。何もなくなったあとに起きることをも、我々は生き抜くことができるのか。

それはアンナの手紙にある、まさにこの点です。

そこで最後に残るもの

わたしは読み終えても、それらをまとめる言葉がまだ見つかりません。「無いところから 作る 力」というかなんというか。アンナの手紙から、アンナがかろうじてそれを失っていないこと、絶望的な世界で人を繋ぎ止めているもののことを書いています。

人々のよく行う会話

けれども、望みが消えてしまうとき、望みというものの可能性さえ望まなくなってしまったことに気づくとき、人は何とかして進みつづけようと、夢や子供っぽい思いや物語で空っぽの空間を満たそうとするものなのです。

そこで人々はよく、ありもしない食べ物のことを話すと言います。そのくらいしか話題がないとも言っていますが。

また手紙でアンナは「物拾い人」という職業と、ボリス・ステパノヴィッチという腕利きの商人について、彼らが世界にもたらす「価値」みたいなことについて書いてます。

「物拾い人」の目利き

ある限界点を越えれば、物は汚物に、ゴミに、ガラクタに変わってしまうのです。そこにあるのは、今までなかった新しい何かです。

それは物のモノ性を示すゼロ記号です。物拾い人は、こうした全面的腐朽状態に至ってしまう前に物を救出しなくてはなりません。

ただ ゴミ とみなしたものを拾うだけの「ゴミ収集人」と「物拾い人」を分かつのはここです。その世界では死体や糞尿でさえ燃やして資源にしようとするくらいですので、まともな物というものはほとんどありません。そのゴミか物か微妙なものの中にかろうじての価値を発見するのが上手い人間が、優秀な「物拾い人」なのかもしれません。ゴミか価値があるか、「売れる」どうかは、拾う人の「想像する力」にかかっています。

また、後半で、ボリス・ステパノヴィッチという魅力的な人物が登場します。ボリスは嘘の名人です。誰も傷つけることのない嘘の名人です。取引先とやりとりするとき、彼はこんな様子です。

ボリスの魅力

ボリスは彼ら一人ひとりの要求に応じて、良心の苛責も何のそのと目一杯嘘をつきまくりました。でもそれはすべてゲームの一部だったのであり、ボリス自身、これがゲームにすぎないことを一瞬たりとも忘れはしませんでした。

また、荒廃した世界にもかかわらず、ボリスの商品は贅沢品です。富豪の建てた慈善施設、ウォーバン・ハウスの、今は使われなくなった贅沢な調度品を横流しする事が仕事なのですが、ゼロになりゆく世界でそんなもの売れるようには思えません。しかし彼は腕利きの商人のようで、恰幅もよく、儲かってもいそうです。実のところ彼は、贅沢品そのものを売っていたわけではありませんでした。

ボリス・ステパノヴィッチから一個の古い花瓶を買うとき、人は単に花瓶を買っているのではありませんでした。花瓶とともに、その花瓶が生きていた世界をまるごと買っていたのです。

そう、お得意の嘘です。ありもしない物語を商品のためにこしらえてやり、人は、荒廃した世界でボリスの物語を買っていたのです。これを残された価値だと言わずなんだというのでしょう。あの世界において、想像することを忘れないボリスのメンタルは強いなと思いました。

アンナの拠り所

もうひとつだけ残るものがあります。それもやはり実態はありません。それは「記憶」です。残る、というか残す、部類のもので、アンナは特にこれに固執しようとしています。

いままで持っていた物を失ってはじめて、私たちはその物の存在に気づきます。そしてそれをふたたび取り戻すやいなや、またしてもその存在を気に留めなくなってしまうのです。

どんどんこぼれ落ちてしまうために彼女は一所懸命、出来るだけの「記憶」を手紙という形で、ノートに残そうと「あなた」へあてているのでした。

二つの映画との関連

映画を見てこの作品を思い出したのは、「アイ・アム・レジェンド」の誰もいないニューヨークの様子が本作の街と、「デイ・アフター・トゥモロー」の絶体絶命の中「図書館で本を燃やす」シーンと、寒さを防ぐためにコートの下に新聞紙を丸めて入れていたことがそのまんま本作にもあったこと、が契機だったように思います。

後者は特にシンクロしてましたね…