あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

「草枕」… ひとつ手にとっては丁寧に検討する「余」先生との時間プライスレス。

くたびれている。と、帰りの電車でぽつり浮かぶ言葉。

だからって、気分の転換に何処に行きたい訳でもなし。場所が解決してくれるとは、思わない。同じ理由で、新しい何かを始めて、リフレッシュしようとも、思わない。くたびれているが故、動けないと言えるのかもしれない。

できればあまり考えたくない。こういう時、わたしの指はいつもユーチューブや映画や漫画やゾゾタウンやそんなものたちをかき寄せてくる。

でもそうじゃない!… そいつらは意外と、本当に、 意のほか にわたしを疲れさせにかかってくる。やつらは消費を促してくるものものたちだ。おれを見てくれー感がある。うるさい。そしてそれを見てるわたしのこころも実は結構うるさかったりする。

そういうのはもういい。わたしは、ただ消費するだけでなく、無心になれるくらいには没頭できて、かつ、丁寧な、質の良いものにあたりたかった。そこで、実はわたしは知っている。こんなシチュエーションには結構、昔の小説がピッタリだったりする。ということで、何度目かの夏目漱石の「草枕」タイムが来た。青空文庫で読める、処方箋だ。

図書カード:草枕

草枕」のススメ。

読んでない人に伝えたい。今です!!特に関西圏のひとはこのタイミング以上に適したタイミングはないくらいだと思う。なぜなら草枕の物語はこの三月半ばの話だし、おまけにターナーだ。京都で展示会期中の画家、ウィリアムターナー草枕の中で何度も出てくる。合わせて展示へ行けばツウな楽しみ方ができることうけあいだ。

あらすじ

  • 画工の青年、都内から静岡の那古井の温泉宿へふらり
  • 青年、ミステリアスな娘、茶人の旦那、江戸っ子気質の髪結い屋、実直な坊さんやらに出会う
  • 青年、坊さんの甥が満州へ出兵するのを、那古井の人々とともに駅まで見送る

所感

第一人称は「余」。風流な人の話である。

特に何が起きる訳でも、どんでん返しがある訳でもない。画工というキャラクターそのままに、景色を豊かに切り取り自分の言葉にする青年の、そのままの心情がつらつらと描かれてゆくだけ。でもそれがなめらかで、適切な日本語で描かれていて、収まるところに収まる感じがして良い。

青年の眼に映る世界の描写の鮮やかさには、まるで絵を見てるみたいな気持ちになる。

身の回りにあるものをひとつひとつ手にとって検討して見る姿勢は、清少納言枕草子エッセーをも思わせる。読み返すたび、そのやり口は、わたしにものの見方を教えてくれる。先生みたいなもんだ。

一読目、冒頭のキャッチーさに唸る

山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

有名すぎる冒頭。この評判は気になっていて、まずそのキャッチーさからの興味で手に取ったところもあった。でも実は、良いのはここから、次の文!

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

これこれ。わたしはこれを信じて生きている。どこへ越しても住みにくい、ってのはなるけど、現実問題その心境は先が見えなくて辛く感じるものです。出口がない感じで。しかしね、草枕ではここで、その先には「詩が生まれて、画ができる」と、夏目漱石たる文化人がサッパリと言ってくれてるところに、いきなり希望をくれるんです。

だから初見でのっけから、あ、これは夏目漱石でもマイベストかも、と思ってしまった。で、結局最後まで、品よく抑えたテンションと、選ばれた言葉のリズムが心地よくさらっと読んでしまったのが1回目。あんまり覚えてなかったけど気持ちが良かった。

二読目、椿と木瓜と、拙という言葉の眺め方を教わる

多分次かしら、ペラペラーっと読んでいて、何が良いって、この主人公の青年の、植物を見る視点が素敵だなあと気がついたのだった。

山椿の花と木瓜の花を眺めて思う内容の豊かさたるや。わたしは山椿の花が好きだったから、一方であれを妖艶で毒気を帯びた不気味なものと見る視点が珍しかった。それになによりも一番、木瓜の花の愛で方にはついついつられ、わたしも木瓜の花が好きになってしまった。

木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲がった事がない。そんなら真直かというと、決して真直でもない。ただ真直な短い枝に、真直な短い枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上がっている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生まれ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。

拙、という言葉と、その意味するところをここから改めて知った。拙という字は、「拙い」とか「稚拙」とかで使われる通り、何かに足りていないとか、不器用だとかいう意味でしか知らなかった。しかしこれを調べると、自身を謙遜するときに使うこともあるようだ。何が魅力かはこれだけ見ると分からないけど、作中の坊さんを「拙」な人の代表みたいに語る青年の羨ましそうな口調が教えてくれる。坊さんのように背筋の伸びた「拙」なひとは、きっと筋道立てて話せる賢い人よりも、誰よりも、おおらかで豊かなひとなのかもしれない。読み終えて、わたしも木瓜になりたくなっていた。

この、小さきものの愛で方には、柳宗民の雑草ノオトにも通づるところがあったと記憶している。これも良い本。雑草が愛おしくなる。

柳宗民の雑草ノオト (ちくま学芸文庫)

柳宗民の雑草ノオト (ちくま学芸文庫)

和食と和菓子の地味ゆえの良さを教わる

その回か、次くらい。地味色の和食の良さと、羊羹の美しさを教わる。それも文章から。

漱石は、

いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。

とまで言ってのける。ここでターナーの逸話がひとつ挟まれる。書かないけど。

あと羊羹。

余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好だ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。

羊羹を一個の美術品として見る視点は「余」に教わった。考えてみたこともなかったが、言われてみると、美しい様子が想像できなくもない。世の中にはそういう視点を持つ人がいるから面白い。

すべての菓子の中で…もっとも…と、英語の例文くらいかっちりと言い切ってしまえる潔さも心地よい。わたしがそれくらい断定して言えるものはあるだろうか。ハチミツかもしれない。清少納言ならなんというだろうか。

古きよき日本語を教わる

それで今回。歴代でもぼーっとレベル高めに読んでいたら思わぬ拾い物をした。へんな日本語だ。少し古い小説には、さらっと読み流してしまいがちだけど、こむつかしい熟語や、分かりそうで分からない、少し時代の遠い日本語が潜んでいたりする。

「咄この乾屎橛」

「乾屎橛」。かんしけつ、と読む。江戸っ子気質の口の悪い髪結い屋がぶつけてくる「わるぐち」だ。現代風にいうと「くそったれ」なのだが、髪結い屋のセンスのいいところはこれを小坊主にぶつけるところだ。かんしけつ、は禅の言葉のひとつで、広辞苑によると「乾いた棒状の糞」の意味であり、かつ、禅の世界では「仏とは何か」という問答の、答えとして用いられた言葉だという。禅問答、そこまで奇をてらうのはありなのか、と思った。なお、はじめの「咄」は、とつ、と読む。「舌打ちをする音。叱る音。また、事の意外に驚き怪しむ声」とある。「咄嗟の」とかで使ったりする。舌打ちの仕方も意味も今とは違うのかもしれない。そういう想像も、古い小説を読んでいると面白い。

 彼は髪剃を揮に当って、毫も文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。揉上の所ではぞきりと動脈が鳴った

「ぞきりと」。昔の小説には、面白い擬音擬態語もたくさん隠されている。広辞苑を調べてもこんな言葉は出てこなかった。ネットで検索をすると草枕ばかり出る。草枕オリジナルなのかもしれない。ジョジョの奇妙な冒険の効果音のように。「どきりと」にも「どきっと」にもない、より、鋭い印象を受けた。ここでの「がりりと」もいい味を出している。

五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁への勘定をして、それが人世だと思ってる。

「人世」。こうも書けるのか、と新鮮だった。これを「じんせい」と読んでみると、これまでの「人生」とは変わった広がりのある「じんせい」に見える。

つぎ読む時は、何が見つかるのだろう。やっぱりわたしにとっての特別な一冊。マイ、ベストオブソーセキ。古い小説が日本にたくさん残っていてよかった。

草枕 (1950年) (新潮文庫)

草枕 (1950年) (新潮文庫)