あのトモ

- 本に出てくるあの娘ぼくがトモダチになろうっていったらどんな顔するんだろう -

「未必のマクベス」旅って、何だ?

読んだ。話題作だ。作者は前作からじつに22年ぶりにこの作品を出したという、大作だ。

「あなたは、初恋の人の名前を検索したことがありますか」なんて帯のキャッチコピーから、がっつり恋愛小説かと思いきや、どっちかというとクライム・サスペンス寄りな気がした。アジアを股にかける脂の乗った33歳のビジネスマンの主人公が「マクベス」として、元の戯曲のストーリーラインを匂わせながら、暗号化技術をめぐる組織の陰謀に巻き込まれてゆく物語だ。

ざっとあらすじはそんなところだが、一も二にもまず言いたいのは、冒頭の文章が素晴らしい。わたしはこれで心を鷲掴みにされ、読後も今に至るまで時折思いを巡らすほどの強い印象を受けた。本編抜きにしても妙に刺さる文章だった。ぜひ全文を手に取って読んでもらいたい。作品を通して「旅」ってのがちょいちょいキーワードで出てくるけど、冒頭にこのエクスキューズが入ることで、読者は、この物語における「旅」のニュアンスを意識づけられることになる。

旅って何だろう? と考える。 「自分の居場所から離れて、滞在あるいは移動中であること」と、杓子定規に考えてみる。 そう仮定すれば、旅を続けることは難しい。どんな場所だって、たとえそれが、飛行機の窮屈な座席だとしても、そこで長い時間を過ごしてしまえば、やがて自分の居場所になってしまうだろう。自分を取り囲む環境に対して、「ここは自分のいるべき場所ではない」と意地を張り続けることは、並大抵の意思ではできないと思う。

〈略〉

旅は、自分の居場所に帰る道を知っている間に終わらせる方がいいと、ぼくは思う。

以下、ほぼ本編に関係のない話になると思う。

確かに。「旅」って、どこから、どこまでがそうなんだろ。「うちに帰るまでが遠足ですよ」なんて言われたけど、その遠足の時にしても、いつの間に高速バスが見慣れた街並みの中を走っていることに気づいた瞬間、もう日常だと思ったものだった。

「旅」をするためには、「居場所」と「不確実な行き先」が不可欠なんだろう。「居場所」のない人は、「旅」ができないし、ただ「居場所」に戻るのでは「旅」ではなく「移動」といったほうが良い気がする。戻るべき「居場所」あるいはスタート地点がわからないでいるその人は、本人の自覚なしに常に旅をしているようなものだ。そういう人を根無し草とか、風来坊だとかいうのだろう。

それはわたしが横浜を離れ、京都に住み始めてからうすうす感じていたことだった。わたしはここ京都という場所が好きだけど、根無し草だった。ここは、国内外問わずの観光客やら、府外からの学生なんかが多いせいもあって、余計にそう思うのかもしれないけど。

京都は住みやすい。ここには、わたしを飽きさせることのない、いくら散歩しても観きれない歴史的文化財群がある。こだわり抜かれた「丁度いい」規模の個人のお店や活動がある。わたし向きだなあ、とつくづく思いながらもう6年も住んでいる。でも、なんだか落ち着かない気持ちがずっと、心の奥底にいつでもあった。かといって、関東にもそこそこ飽きて京都に来たので、ここ以上の場所もわからない。「不確実な行き先」まで条件は揃っている。まさに根無し草だ。

根無し草で生きていると、いかんせん土に根を張れないものですから、じわじわと、そして気づいた頃にはかなり、なんというか、ヒトという生き物としての「生命力」が削がれてしまっていた。ゆらゆら帝国「空洞です」が、テッテッテーッ、テーテテッテッテーッ♪ と流れてきちゃうような、「なんとなく、たのしい」そんな「空洞です」な感じ。たのしいことは沢山ある。傷つくこともたくさんある。生きてる。でもふわっとしてる感じ。

具体例を挙げよう。週末、時間を過ごすのに読書会に参加してみる。本が好きな友人ができる。いまはSNSなどもあり、友人の関係自体は長く続きそうで、嬉しい予感がする。でも、京都でなんか一緒にやろうとは思わない。ゆくゆくどこかで、まだここではないって感じがする。

あるいは仕事帰り、くたびれて帰ってもがらんとした部屋が待つだけ。猫もダンナもいない。いつか引っ越す予感がしてるから、なるべくモノやインテリアは増やしたくない。冷蔵庫の中はいつか買った人参だけ。仕方ないからその人参に味噌とマヨネーズをつけてかじる夕食。服は脱ぎ捨てて半裸みたいな状態だ。この様子を妹に報告したら、原始人だとまで言われた。そこまで退化していたとは。

わたしは浮き草モデルで生きられるタイプのような人間ではなかったようだ。

いよいよその指摘もあって、限界を自覚したわたしは近々、根が張れそうな元の場所、横浜に戻ってみることにした。仕事も決まった。だがここで心配が出てきた。矛盾しているようだけど、わたしはどこかで心配ごとを持っていないと不安になるたちなのだ。

心配ごとは、またあの「未必のマクベス」からの「旅」からの発端だった。

「旅」って後ろ向きな印象で語られることがないけど、つまり、見渡してみても「旅」好きな人ばかりだけれど、人は「旅」の何にそこまで惹かれるのだろうか。

考えてみると、それは「期待」じゃないかと思う。なにかが(都合のいいことにこういう時物事の悪い方面はあまり考えないものだ)起きそうな予感、どうなるかわからない自由さを自分でまだハンドルできるという自覚を持っているという感覚、そういった「期待」を抱かせてくれるから、人は「旅」に惹かれるんじゃないか。「旅」はきっと行く前とはじめが一番たのしい。

わたしは今は良い。だって、関東に帰ることが決まった。「旅」することが決まって、根拠のない「期待」を抱いているからたのしい。

そこで心配ごととは、この「旅」が鮮やかさを失い終わってしまったあと、「日常」が訪れた時、いまの根無し草の「日常」と似たレベルまで堕ちてしまうことが怖いのだ。生き物としてのヒトとしての自分の生命力に疑いを持っている。いかんせん熱しやすく冷めやすいヒトなのだ。

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いろいろ不安はある。しかし少なくとも、根無し草の感覚を知ったいまなら、もとの「居場所」である関東は違って見えてくる筈だ。そう信じたい。

旅は、自分の居場所に帰る道を知っている間に終わらせる方がいいと、ぼくは思う。

って、いまならわかる。たとえ最後はそれが「移動」と成り果ててしまっていても、「旅」してることすらわからなくなって、根無し草になることを考えると、現実的な、大人の回答だと思う。

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

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